Tokyo diary

本と映画の記録です

【映画】スポットライト 世紀のスクープ

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これぞマスコミの為すべき仕事

と、感じさせられる映画です。舞台は2001年のボストン。 地元紙ボストン•グローブ紙の新局長に、マーティ・バロンが就任し、ゲーガン神父の子供への性的虐待事件をチームで調査し記事にするよう、彼が同紙の少数精鋭取材チーム「スポットライト」に持ちかけるところから映画は始まります。映画のタイトルはこの取材チームからきていますね。そして、このチーム•スポットライトが、長年、闇に葬り去られてきた、教会の闇を暴くという話です。

 

私、基本的にアンチ•既存マスメディアでして、日本の政治報道には辟易している側の人間なのですが、この話の報道マンの正義感には胸を打たれるものがあります。誰ひとりとして私利私欲で仕事をしていない。新局長、バロンが慣例で街の枢機卿に挨拶に出向く場面で、枢機卿から「教会と新聞とで街を盛り上げよう」と声をかけられるのですが、バロンは毅然として「新聞は、独立自尊であるべき」と、返します。日本の新聞は独立自尊の看板を掲げて、書いてる内容が偏見に満ちていると感じざるを得ないので好きになれないのですが、このボストン•グローブ紙のチームにはそういった欺瞞はなし。この話、実話なのがミソでして、ボストン•グローブ紙は、2003年にピューリッツァー賞を公益報道部門で受賞しているようです。

 

キリスト教社会における教会の存在感

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この話を見ていて感じるのは、キリスト教社会に深く根付く教会の存在感です。2001年の話ですから、ほんの20年ほど昔の話(むしろ書いていて、2001が20年前という事実に驚かざるを得ない...)。そんな現代に教会という権威は社会を覆っており、それは、人びとが権威の裏に潜む悪に立ち向かうことに困難や畏怖を覚えるには十分なほどの深さであるということに、驚かされます。一神教キリスト教、で、ありながら、中間団体として存在する教会というシステムが強固に根をはり社会を強く方向づけている点にもある種の矛盾を感じます。一神教であるはずのキリスト教の人びとが、イエスキリストではなく、教会を信仰することへのロジックをどのように関連付けているのか、気になります。中世の時代は、教会にしか聖書はなかったし、ラテン語でしかそれは書かれていなかったら、教会が知の集積地だった。それは分かるのですが、翻ってこの現代に、教会が正当化され、社会に根付くロジックは一体なんなのでしょうか。と、いうことが気になったのでした。

 

とりとめないですが、今日はこの辺りで。

 

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